2023年度後期の朝ドラ「ブギウギ」では、スズ子が憧れた歌手「茨田りつ子」が登場していますね!
スズ子の実在モデルは笠置シヅ子さんですが、「茨田りつこ」の実在モデルは淡谷のり子さん、と言われています。
この記事では、
- 「ブギウギ」茨田りつ子のモデルとなっている淡谷のり子さんにはどんな人なのか
- 笠置シヅ子さんと淡谷のり子さんの関係、仲良しだった?
についてリサーチしました。
ブギウギ| 茨田りつ子のモデルは淡谷のり子!
NHK連続ドラマ小説「ブギウギ」では、ヒロインスズ子のライバルとして登場する茨田りつ子を菊地凛子さんが演じていますね。
スズ子は、茨田りつ子が歌う「別れのブルース」を聴いてりつ子に憧れ、上京。
そして、 歌手になった鈴子は、りつ子と2人で支え合い、競い合い、良きライバルとして芸能界を生きていくというストーリーです。
この茨田りつ子のモデルとなっているのは、青森県出身で「ブルースの女王」と呼ばれた、淡谷のり子さんです。
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茨田りつ子のモデル「淡谷のり子」ってどんな人?
淡谷のり子さんの生い立ちや経歴をみていきましょう。
生い立ち
淡谷のり子さんは、1907年8月12日生まれで、青森県青森市出身の歌手。
青森市の豪商「大五阿波谷」の長女として生れますが、3年後、青森大火により大五阿波屋は焼失、再建を目指したものの、父親が酒や女遊びばかりする放蕩癖により破産します。
母と妹の3人で上京し、淡谷のり子さんは、音楽教師になりたいと考え、東洋音楽学校へ入学。
当初は、「 声楽なんて難しくてお前さんには出来ない」と校長に言われたことで、ピアノ科にはいりましたが、担当の先生から声楽科を勧められ、声楽科の編入試験に合格します。
その後、実家の家計が厳しくなり、1年間休学。
「霧島のぶ子」として、裸婦モデル等で生活費を稼ぐ日々が続くことになります。
日本で初のシャンソン歌手に
1929年、東洋音楽学校・音声学科を首席で卒業、オール日本新人演奏会に母校代表で参加すると、「十年に一人のソプラノ」と称賛されます。
1935年(昭和10年)、「ドンニャ・マリキータ」がシャンソンとしてヒット!
淡谷のり子さんは、日本で最初のシャンソン歌手となったのです。
その後の経歴は次のとおりです。
- 1937年(昭和12年)、服部良一作曲の「別れのブルース」を発表。
- 1953年(昭和28年)、第4回NHK紅白歌合戦に初出場し、初出場でトリを務める。
- 1971年(昭和46年)、第13回日本レコード大賞特別賞を受賞。
(オーディションやバラエティー番組の審査員として、厳しい評価が若者から支持され名物になります)
特に1980年代から90年代は、フジテレビ「ものまね王座決定戦」では、名物審査員として人気でしたね。 - 1998年(平成10年)には、青森県青森市の名誉市民に選出。
85歳になっても新曲を発表するなど、生涯にわたり歌手として精力的に活動しますが、1993年(平成5年)に脳梗塞を発症した影響で仕事を控えます。
1999年(平成11年)9月22日、老衰のため92歳で死去しました。
代表曲
淡谷のり子さんの代表曲には、
- 別れのブルース(1937年)
- 雨のブルース(1938年)
- 君忘れじのブルース(1948年)
- 愛の讃歌(1953年)
などがあります。
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淡谷のり子の若い頃は?
ブルースの女王・淡谷のり子さんの若い頃というと、
- クールな色気を湛えた美人
- 若い頃の淡谷のり子さんはかっこいい!
といった世間の評判がありますね。
目のお化粧がしっかりしていて、毒舌なイメージもありますが、若い頃は美人だったともっぱらの評判です。
淡谷のり子さんは、10代の頃、新聞記者か作家になりたいと夢見ていたそう。
しかし上京後、母の影響もあり音楽の道に進みました。
また若い頃、東洋音楽学校当時にモデルをしていたこともあります。
淡谷のり子に娘はいる?
淡谷のり子さんには、子ども、娘さんがいたことが知られています。
結婚、離婚、出産の経験があり、次のとおり。
- 1931年:ジャズ・ピアニストの和田肇さんと結婚
- 1935年:離婚
- 1938年:娘を出産
淡谷のり子さんは、離婚後は生涯独身を貫いています。
1938年に出産した娘さんの父親が気になるところですが、和田肇さんとの間の子供ではないようで、父父親の情報は公表されていません。
淡谷のり子さんはご自身の母親に手伝ってもらいながら、シングルマザーとして、歌手活動をしていました。
ネットでは、その父親がもしかしたら歌手のディック・ミネさんかもしれないという噂もあります。
実は、ディック・ミネさんは、淡谷のり子さんに見いだされて歌手デビューしました。
カリスマ的な魅力の持ち主で、何度か結婚もしています。
そして、1983年には淡谷のり子さんとデュエット曲を出して、二人の仲が良かったことも知られていますね。
こういった話が交錯して、結局ネット上でのり子さんとその歌手の間に娘がいるんじゃないかという噂が立ったようです。
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淡谷のり子と笠置シヅ子との関係は?仲良しだった?
さて、ブギウギではライバル関係で互いに切磋琢磨しているスズ子とりつ子ですが、
それぞれのモデル、笠置シヅ子さんと淡谷のり子さんの関係は、どんなものだったのでしょう?
対照的なふたり
笠置シヅ子さんと淡谷のり子さんは対照的な歌手であり、そして互いに切磋琢磨して成長したライバルでもありました。
笠置シヅ子さんがスターになる前は、笠置シヅ子さんが淡谷のり子さんの「別れのブルース」をラジオで聞いて感銘し、淡谷のり子さんに憧れていた知られていますね。
笠置シヅ子さんがが歌手になってからは、2人の曲は対照的だと感じられます。
両者とも服部良一とのつながりが強いなかで、笠置シヅ子がブギウギのリズムでリズムを前に出している「陽」なのに対し、淡谷のり子さんの曲は、哀愁漂うブルースで「陰」のイメージですね。
ふたりは、出会ってからは仲良くなり、戦前戦後の昭和の時代に活躍しながら、お互いに成長してきたのではないでしょうか。
仲良しだった?
ブギウギでは初回放送で、スズ子と茨田りつ子が同じ楽屋で語らっているシーンから始まりましたよね。
りつ子の腕の中には、シヅ子の赤ちゃんもいました。
仲良し、というか、ふたりの間には信頼関係があるように見えましたよね。
それぞれの実在モデルのふたり、笠置シヅ子さんと淡谷のり子さんの間にも、ドラマで描かれたような仲だったのでしょうか?
笠置シヅ子さんの自叙伝に、淡谷のり子さんのことは、多くは出てきませんが、
私は日本の歌手のなかでは、淡谷のり子、渡邊はま子といった人たちが好きであった。
との記述があり、また、笠置シヅ子さんが楽団を立ち上げたとき、マネージャーのお世話をしてくれたのが淡谷のり子さんだったそうです。
ブギウギでは、ふたりは何かと衝突も見られますが、心の奥底では互いを認め合っているように感じます。
笠置シヅ子さんと淡谷のり子さんの間にも、互いにそんな気持ちがあったのかもしれませんね。
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淡谷のり子と美空ひばりの不仲説は本当?
淡谷のり子さんは、後輩に対して厳しい物言いをすることでも知られていますね。
昭和を代表する「美空ひばり」さんも例外ではありませんでした。
ある日、淡谷のり子さんのアルゼンチンタンゴのステージにおいて、美空ひばりが、仲良しでライバルの笠木シズ子のモノマネをします。
それについて淡谷のり子さんが、
「人のモノマネをして私のステージをめちゃくちゃにした!」
と怒っていたという話があります。
しかし、それは美空ひばりさんが現状に満足することのないように厳しく接していただけ。
2人の仲は、一緒にお風呂に入っていたような仲良しの関係だったそうですよ。
以上、今回はブギウギ・茨田りつ子のモデルとなっている淡谷のり子さんについてご紹介しました。
ブギウギでは、今後シヅ子とりつ子がどんな関係になっていくのか楽しみですね!
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