2023年4月スタートのNHK朝ドラ「らんまん」。
「日本植物学の父」といわれた牧野富太郎博士がモデルですが、その前に日本の植物学築いた人物「伊藤圭介」さんがいます。
今回は、医師であり植物学者の伊藤圭介の功績、また牧野富太郎との関係についてもご紹介します。
伊藤圭介ってどんな人?
伊藤圭介は、江戸時代から明治初めにかけて日本を代表する植物学者。医師としても活躍し、多くの業績を残しました。
名古屋出身の医師で本草学者
伊藤圭介は、1803(享和3)年に、医者である父・西山玄道と母・たきの次男として名古屋の呉服町(現在の名古屋市中区丸の内)に誕生しました。
幼い頃から父や先生に学び、本草学者、医師として活躍します。
18歳のときに医師としての仕事をスタート。
父親から漢方医学を学んだ伊藤圭介は、江戸時代中期では西洋式の医学も含めた蘭学も学び、自身の医学に活用しました。
シーボルトとの出会い
医師として働く一方で、植物採集も続けていた伊藤圭介は、ドイツ人医師であるシーボルトと出会います。
医師で博物学者でもあったシーボルトは、1823年に来日。
長崎出島でオランダ人の健康管理の仕事をしながら、日本の自然調査も行います。
伊藤圭介とシーボルトの出会いは1826年、長崎から江戸へ行く途中に名古屋の宿に寄ったときのことでした。
伊藤圭介はオランダ語が話せたことから、シーボルトとの交流を深め、以降長崎でシーボルトのもとで植物学を学び、ともに研究を行いました。
おしべ、めしべの名付け親
名古屋に戻った伊藤圭介は、医師として働く一方で、シーボルトからもらった「Flora Japonica」の研究を続けます。
そして、1829年、27歳のときに、『泰西本草名疏(たいせいほんぞうめいそ)』を出版。
この本の中で、「おしべ」、「めしべ」、「花粉」という言葉が初めて使われました。
植物学者として
名古屋で活躍した後、明治時代になると新政府の要請により、植物学者として、文部省の教授や東京大学理学部客員教授などを任されました。
また東京の小石川植物園で植物の研究も行い、86歳のときに日本で最初の理学博士となります。
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伊藤圭介(植物学者)と牧野富太郎の関係は?
本草学者、医師、植物学者として活躍し、1901年に99歳の人生を終えた伊藤圭介。
牧野富太郎は、伊藤圭介のことを
「本草学の大家として、大海の中に毅然として立った島」
と高く評価しました。
牧野富太郎と伊藤圭介の間には直接関わりがあったのでしょうか?
牧野富太郎と伊藤圭介の交流
伊藤圭介の日記から、牧野富太郎が初めて上京した時に、伊藤圭介を訪ねたことが明らかとなっています。
また、伊藤圭介編著の「植物図説雑纂」の中には、牧野富太郎からの植物についての質問状が綴じこまれていたそうで、ふたり交流を深めていたようです。
伊藤圭介が亡くなったあとには、牧野富太郎は郷土史家吉川芳秋への手紙で、
「伊藤圭介の遺品は植物学において貴重なものであるため、未完のものでも出版した方がよい」
と、記されています。
牧野富太郎にとって、伊藤圭介は植物学のよき先人といえる方だったのでしょう。
伊藤圭介の孫・篤太郎との交流も
また、牧野富太郎氏は伊藤圭介の孫・篤太郎とも交流がありました。
牧野富太郎自叙伝にも、伊藤篤太郎とのエピソードが登場します。
牧野富太郎と伊藤篤太郎との出会いは明治14年。
その後篤太郎は一時海外に留学をしますが、帰国してから、ともに研究を深めました。
「ヒナノシャクジョウ」を日本で初めて採集し、和名をつけたのは牧野富太郎です。一方、伊藤篤太郎は、沖縄で採集された「ルリシャクジョウ」の標本を詳しく調べました。
そして、のちに牧野富太郎が新種であると発表し、伊藤篤太郎に因んだ学名をつけたのです。
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らんまんに伊藤圭介の孫が登場!
さて、朝ドラ「らんまん」では、第70話で伊藤圭介の孫「伊藤孝光」というキャラクターが初登場します。
おそらく「伊藤孝光」は「伊藤篤太郎」をモデルとしたキャラクターであり、「伊藤孝光」を演じるのは、落合モトキさん。
万太郎との出会いが面白おかしく描かれるということで、楽しみですね。
また、トガクシソウをめぐる「破門草事件」についても触れられるようです。
こちらもどんな展開になるのか目が離せません!
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