2023年4月からスタートしている朝ドラらんまん。
ドラマは折り返し地点を迎えますが、ちょうどトガクシソウのエピソードが登場しましたね。
今回は史実でも起こった、別名「破門草」とも呼ばれるトガクシソウを巡る事件についてリサーチしました。
らんまんでトガクシソウ(破門草)事件が描かれる?
らんまん12週では、万太郎が佐川に帰省している間に、ロシアのマキシモヴィッチから手紙が届きます。
万太郎が発見したマルバマンネングサが新種と認められたといううれしい知らせでした。
それと同時に、田邊教授が送ったトガクシソウ(戸隠草)も認められたというシーンもありましたね。
やっぱり破門草事件もやるよね…🥺#らんまん #朝ドラらんまん pic.twitter.com/5EnkP5JTiD
— satosi_s (@satosis) June 22, 2023
また、らんまん第14週では、植物学者・伊藤圭介の孫・伊藤孝光(伊藤篤太郎がモデル)が登場します。
ということは、
「らんまんでも、実際にあった破門草事件が描かれそう」
ということで、トガクシソウをめぐる事件(別名:破門草事件)がどんなものか、みていきたいと思います。
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トガクシソウの学名を巡る「破門草事件」とは?
破門草事件とは、主にふたりの植物学者の間で起きた事件。
ときは明治の前半。
ふたりの植物学者とは、こちらの2人です。
- 矢田部良吉(らんまんでは田邊教授)
- 伊藤篤太郎(らんまんでは伊藤孝光)
伊藤篤太郎は、植物学者・伊藤圭介の孫です。圭介には後継者として期待されていた謙という三男がいましたが、明治12年に若くして亡くなられています。
その跡を継いだ篤太郎(謙の甥)が祖父の指導のもと、植物学の勉強に励んでおり、当時、東京大学植物学教室への出入りも許されていました。
トガクシソウとは?
トガクシソウは、長野県の戸隠山で最初に採集されたので、「トガクシソウ(戸隠草)」
メギ科トガクシソウ属の多年草で、別名、トガクシショウマとも。
#朝ドラらんまん
トガクシソウ
昨年見ることができた希少な花。 pic.twitter.com/UoZb9vAbEs— ちゃこふ (@0608f) July 6, 2023
日本人によって初めて学名がつけられた植物として知られていますが、その学名が付けられたときに事件は起きました。
破門草事件の経緯
トガクシソウを巡る事件を簡単に説明すると、こうなります
- 伊藤篤太郎が、叔父が発見した植物が新種であると考え、マキシモヴィッチに鑑定を依頼したものの、存在するメギ科ミヤオソウ属の一種として発表される。
- 同じ植物を矢田部教授がマキシモヴィッチに送ると「メギ科の新属」として発表したい という返事がくる。
- これを知った伊藤篤太郎が、新しい属名をつけ、新組み合わせ名として学名をイギリスの雑誌に発表
- 矢田部教授が激怒し、伊藤篤太郎の大学の出入りを禁止。
詳しい経緯を追ってみました。
明治8年(1875年)
篤太郎の伯父・謙が、田中芳男ら博物局の一行と共に、長野県に赴き、戸隠山系の高妻山でトガクシソウを発見
明治12年(1879年)
謙が若くして亡くなります。
明治16年(1883年)
篤太郎は、ロシアのマキシモヴィッチに、書簡や書籍とともに植物標本を送り鑑定を依頼。
同年、日本を後にしてイギリスに留学
明治17年(1884年)
矢田部良吉も戸隠山で本種を採集し、小石川植物園に植栽。
明治19年(1886年)
マキシモヴィッチは、篤太郎が送ってきた標本について、メギ科ミヤオソウ属の一種として「Podophyllum japonicum Itô ex Maxim.」と、ロシアの雑誌に発表。
明治20年(1887年)
- 篤太郎が帰国
- 一方の矢田部良吉は、この年にマキシモヴィッチに標本を送る。
- マキシモヴィッチはこれについてメギ科の新属を考え、「Yatabea japonica Maxim.という学名をつけたいから、もう少し資料を送ってほしい」という内容の手紙を矢田部に出す
明治21年(1888年)
手紙のことを知った篤太郎が、新属名をつけ新組み合わせとしてイギリスの雑誌に発表。
(「Ranzania T.Itô」として新しい属を設け、先の学名を組み替え、Ranzania japonica (T.Itô ex Maxim.) T.Itôとしてイギリスの雑誌 「Journal of Botany, British and Foreign」に発表しました)
イギリスの雑誌に”Ranzania japonica (T.Itô ex Maxim.) T.Itô”として発表されたトガクシソウは、矢田部教授に学名を献呈されることはありませんでした。
このことで、矢田部教授は激怒。
伊藤篤太郎の植物学教室の出入りを禁止しました。
それゆえに、トガクシソウは「破門草」という名を持つことになったのです。
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牧野富太郎の見解
この事件を間近でみていた牧野富太郎氏はどんなことを感じたのでしょうか?
牧野富太郎自叙伝では、「破門草事件」と題してこの事件のいきさつが記されており、見解として次のように述べていました。
私は伊藤君は確かに徳義上よろしくなかったが、同情すべき点もあったと思う。「とがくししょうま」は矢田部氏が採集する前に、既に伊藤がこの植物を知っていて、ポドフィルム・ジャポニクムなる名を付し、それがロシアの雑誌に出ていた。だから彼にして見れば自分が研究した植物に「ヤタベア」などと名をつけられては面白くなかったのだろうと思う。
引用:牧野富太郎自叙伝
また、当時大学で矢田部教授の補佐をしていた「大久保三郎」という植物学者も、破門草事件の目撃者です。
らんまんでは、「大窪昭三郎」として登場し今野浩喜さんが演じています。
大久保三郎については、こちらの記事でも紹介しています。
⇒ らんまん大窪のモデルは大久保三郎!牧野富太郎と偉業を成し遂げる!
結局、トガクシソウの発見者は?
破門草事件の経緯をみてみると、トガクシソウの最初の発見者は、篤太郎の叔父・伊藤謙ということになりますね。
篤太郎の立場からすると、自分の叔父が最初に発見した植物を、他の人物の名前がつけられた学名で新種として発表されるのは嫌だったのでしょう。
一方で、矢田部教授の立場からすると、自分の名がつけられるはずだった学名が、別の人に横取りされたというような感覚だったかもしれません。
最初に篤太郎がマキシモヴィッチに送った際に、新属として認められていたらよかったのでしょうか。
しかし、それは標本の質や完璧さなどに左右されるはずです。
らんまんの中でも、里中先生が「鑑定がどんなに難しいものか」を説いていらっしゃいましたね。
いずれにせよ、牧野富太郎氏が新種の植物を発表していく前から、植物の命名については複雑な状況だったのかもしれませんね。
朝ドラ・らんまんでは、そんなシビアな世界に万太郎は足を踏み入れていくことになります…。
田邊教授とどうなるのか、気になるところではありますが、まずはドラマで、この破門草事件がどんな風に描かれるのか楽しみにしたいと思います。
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