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牧野寿衛子(富太郎の妻)ってどんな人?出会いからスエコザサのエピソードまで

2023-05-10

「日本植物分類学の父」として有名な牧野富太郎博士。

2023年4月からスタートした朝ドラ「らんまん」のモデルとなっている方ですね。

今回は、牧野富太郎博士を支えた妻・寿衛子夫人がどんな方だったのかリサーチしました。

 

牧野富太郎の妻・(小澤)寿衛子ってどんな人?

NHK朝ドラ「らんまん」の主人公、槙野万太郎と結婚することになる寿恵子。

浜辺美波さんが演じていますね。

らんまんキャスト 寿恵子

 

寿恵子の実在モデルは、小澤寿衛子さん

牧野富太郎の2人目の妻として結婚し、牧野富太郎博士の研究を生涯にわたって支えました。

牧野富太郎と夫婦で並んだ写真や画像も公開されています。

牧野富太郎博士と寿衛子夫人

 

小澤寿衛子の生い立ち

小澤寿衛子は、明治6年(1873年)に、小澤家の末っ子として誕生しました。

父親・小澤一政は、彦根藩主・井伊家の家臣で、陸軍省営繕部の仕事をしており、

母親は京都出身です。

 

小澤寿衛子さんの実家は、東京・飯田橋にあり、当時は裕福な家庭でした。

娘の寿衛子は、踊りや歌の習い事をしていたとのこと。

何人の兄弟がいたのかは不明ですが、寿恵子は末っ子で可愛がられていたようです。

 

父の一政を早くに亡くした寿衛子の家族は、飯田橋の実家を売り、子供たちを育てながら飯田橋で菓子屋を営むことになります。

 

牧野富太郎と結婚

明治23年(1891年)、寿衛子が17歳の時、牧野富太郎と結婚し、根岸の借家で二人の生活が始まります。

結婚後、13人もの子供を出産した寿衛子ですが、半数の子供は病気などで亡くなっています。

⇒ 牧野富太郎の子供は13人!子孫の現在は植物学者?家系図も紹介!

 

土佐の豪商の家に生まれた夫・牧野富太郎は、金銭感覚に疎い人物。

植物に関するものなら高額なものでも買い込んでおり、生活が苦しかったようです。

 

借金取りの対応

借金が膨らみ、家賃が払えずに何度も引っ越しを重ねた牧野一家。

大泉の家に定まるまで、30回ほど転居を繰り返したといいます。

 

借金取りの対応は寿衛子の役目で、債権者が来た際は、寿衛子が何とか口実をつけて追い払いました。

あるときには、子どもを産んで3日後の体で、起きて遠い道のりを歩き、債権者に話をつけに行ったこともあったそうです。

参考:植物記

 

娘の鶴代さんは、母・寿衛子のことを尋ねられて

「お母さんのことはあまり言いたくありません。言うのが嫌です。思い出すのもかわいそうです。」

引用:「人間・牧野富太郎」伝

と答えるほど。

 

しかし、寿衛子は子供たちに、

「学問の為の貧乏だから恥ずかしがらずに胸を張りなさい。」

と、伝えていたとのことです。

 

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粋でおしゃれな人

気になる寿衛さんの人となりですが、牧野富太郎さんのひ孫・牧野一浡(かずおき)さんが叔母さんにきいた話によると、

寿衛さんはとても粋でおしゃれな方だったそうです。

「富太郎はすえと一緒に外出するのがとても自慢だったそうです。そんな富太郎のために外出する日は、わざわざ着物を借りてきて、それを着て外出したそうです。」

引用:牧野富太郎と寿衛

何歳になっても、そんなときめきを感じられる夫婦って素敵ですね。

 

待ち合いの店を経営

寿衛子は、困窮する生活をなんとかしようと、渋谷・荒木に「待ち合いの店・いまむら」を開店

「待ち合い」とは、店舗をかまえて舞妓や芸妓を呼び、仕出し屋から料理をとって宴席を設ける場所のことです。

 

いわゆる水商売だったので、大学で働く夫に差しさわりがないようにと、寿衛さんは、富太郎さんや子供たちと別居して、仕事に打ち込みました。

お店の評判は良く、やっと経済的な余裕を持てるようになります。

 

しかし、周りからの批判もあり、大正15年(1926年)に「いまむら」を閉店することに。

やはり、帝国大学の先生であった富太郎の妻が、待ち合いを経営することに苦情が寄せられたそうです。

 

寿恵子は、店を売却したお金で、東京練馬区大泉に一軒家を建てます。

 

家は完成したものの、昭和2年の末から寿衛子はたびたび下腹部の痛みを訴えるようになり、本郷の東京帝国大学医学部附属病院に入退院を繰り返します。

 

当時は病因不明で治療のしようがなかったようですが、後の文献では子宮がんを患っていたと記載されているものがあります。

そして、入退院を繰り返しながら、寿衛子は2月、大学病院にて55歳で亡くなりました

 

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牧野富太郎と妻・寿衛夫人の出会いや馴れ初めは?

朝ドラ「らんまん」の中では、主人公の万太郎が初めて東京に上京した時に、内国勧業博覧会で寿恵子との衝撃的な出会いを果たしていますが、

実際に、牧野富太郎氏と寿衛子夫人の出会いはどんなものだったのでしょうか?

 

ふたりの出会い

牧野富太郎は植物学の研究をするために大学に通っていました。

その下宿先が東京・麹町にあり、本郷にある帝国大学に通う途中に菓子屋があります。

 

牧野富太郎は、お酒も飲まず甘党だったため、菓子屋に度々訪れていたようです。

その菓子屋の娘が寿衛子でした。

 

結婚の仲介は、太田義二

一回りほどの年齢差があるふたりですが、牧野富太郎が寿衛子に一目ぼれ

寿衛子自身も、牧野富太郎に興味を持っていたのでしょうか。

 

ふたりは会う機会が増え、互いに惹かれるようになります。

しかし牧野富太郎には、植物学雑誌の発刊という目の前の大きな仕事がありました。

 

また、結婚に関しては、寿衛子の母親は反対していたといわれています。

 

一時期、ふたりの間にすれ違いが生じますが、牧野富太郎が石版印刷の技術を習得することになった、太田印刷所の太田義二が2人の仲を取り持ったようです。

 

そして、太田義二の仲人により、牧野富太郎と寿衛子は結婚にたどり着きます。

 

⇒ らんまん大畑義平のモデルは太田義二!牧野富太郎との関係や石版印刷について

 

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牧野富太郎とスエコザサについて

11歳差で牧野富太郎と結婚した小澤寿衛子さん。

富太郎のことを「牧ちゃん」と呼ぶ富太郎への手紙も残されています。

 

ふたりの仲は良く、子だくさんで賑やかな家庭だったようですが、牧野富太郎の収入は少なく、生活は苦しいものでした。

 

困窮する富太郎を支えた妻

牧野富太郎の実家である酒蔵「岸屋」も、酒税に関する問題や、また富太郎に研究のための資金送金で、経済的に苦しい状況

 

寿衛子は、富太郎氏の研究を支えるために、資金繰りに奔走します。

また、たくさんの子どもたちを抱えて、借金取りの対応をしたり、転居という名の夜逃げを繰り返しました。

前述の待ち合いの店「いまむら」を経営し、夫や子供たちと別居してまで働いたといいます。

 

そんな寿衛子だから、体調を崩しても養生する暇がなかったのかもしれません。

 

スエコザサのエピソード

牧野富太郎は、今後の医療の役に立てればと、亡くなった寿衛子の体の一部を大学病院に提供します。

 

そして最愛の妻を亡くした牧野富太郎は、仙台で発見した新種の笹に、妻・寿衛子の名前から、スエコザサと名付けたのです。

 

寿衛子の墓碑には、富太郎が詠んだ歌

「家守りし妻の恵みやわが学び」

「世の中のあらん限りやスエコ笹」

が刻まれています。

 

牧野富太郎が、苦労をかけた妻・寿衛子に感謝の気持ちを込めて命名したという有名なエピソードですね。

しかし、個人的な事情を挟んだ富太郎の献名は例外的です。

 

富太郎は、かつてシーボルトが愛人のお滝を偲んでアジサイに「オタクサ」の学名を命名したことについては、激しく非難したというエピソードもあるほど。

 

牧野富太郎博士にとって寿衛子夫人は偉大で、自分の信念を曲げさせるほど愛していたということだと思います。

 

また、妻の寿衛子夫人が亡くなったあと、3ヶ月程度富太郎氏は腑抜けになってしまったといいます。

「このときの父の狼狽ぶりは忘れられませんね。…
ぼーっとなったままで、何を言っても反応がない。そんなことが3ヶ月ほど続きましたよ」

引用:「人間・牧野富太郎」伝

唯一無二の妻で最大のサポーターであった妻・寿衛子さん。

実生活のすべてを任せていた人が亡くなったのですから、そうなっても無理はありませんね。

 

それでも、牧野富太郎氏は、寿衛子さんが残した娘たちに助けられながら、愛する妻・寿衛子さんの死を乗り越え、生涯研究を続けました。

 

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