幕末から明治時代にかけて活躍した牧野富太郎氏と岩崎弥之助氏(弥太郎氏の弟)。
ふたりは土佐出身の偉人ですが、接点はあったのでしょうか?
今回は、牧野富太郎氏と朝ドラらんまんにも登場する岩崎弥之助の関係や接点についてご紹介します。
牧野富太郎と岩崎弥之助の接点は?どんな関係?
2023年4月からスタートしている朝ドラらんまんでは、第21週より岩崎弥之助氏が実名で登場しますね。
らんまんは植物学者の牧野富太郎氏をモデルにしたストーリーですが、史実では牧野富太郎氏と岩崎弥之助氏はどのような関係だったのか、
チェックしてみたところ、
岩崎弥之助氏は、牧野富太郎の借金を肩代わりした人物
です!
借金が膨らむ牧野富太郎
一度は東京大学への出入りが禁止された牧野富太郎氏でしたが、松村任三氏の誘いで再び東京大学で働けるようになります。
富太郎氏が大学職員になったのは1893年(明治26年)のこと。
助手として働く富太郎氏の給料は、毎月15円。
現在の価値に換算すると、30万円程度です。
暮らしは安定したかのように思われましたが、研究に必要なものは、気にせず購入する富太郎氏。
子どもも生まれて、15円の給料では生活ができなくなり、友人や知人から借金することになります。
それでも足りず、高利貸しからも借金して、牧野富太郎氏の借金は2000円(現在の価値で約3000~4000万円)にまで膨れ上がってしまいました。
土佐出身の田中光顕が岩崎弥之助を紹介
そんな富太郎氏を心配したのが、同郷で元土佐藩士の田中光顕氏。
才能豊かな牧野富太郎氏を助けたいと、岩崎弥之助氏を牧野富太郎に紹介し、その流れで、岩崎弥之助氏が富太郎の借金を肩代わりしてくれたそうです。
牧野富太郎氏は、自叙伝にも岩崎から援助してもらったことを記しています。
私の借金の整理もしておかねばならぬというので、これも同じ郷里出身の田中光顕伯や、それに今の土方君、今は疾とく故人となった友人矢野勢吾郎君などが奔走して下すって、やはり土佐から出た三菱へ話をして、ともかく三菱の本家岩崎氏の助けで、ひとまず私の借金は片づいたわけであった。
引用:牧野富太郎自叙伝
ところで私の宅ではそれから殆ど毎年のように次ぎ次ぎと子どもが生れる。月給は十五円でとてもやりきれぬし、そうむやみに他人が金を貸してくれる訳もなく、ついやむなく高利貸から借金をしたが、これが僅か二、三年の間に忽ち二千円を突破してしまったのです。そこで同郷の土方寧博士や田中光顕伯が大変心配して下さって借金整理に当たることになり、田中伯の斡旋で三菱の岩崎が乗り出してくれてともかく二千円の借金を綺麗に払って下さったのです。
引用:牧野富太郎自叙伝
田中光顕氏だけでなく、土佐出身の土方寧氏なども、富太郎氏のために尽力したのですね。
同郷の絆があったことはもちろんですが、それでも2000円(現在の3000~4000万円)ものお金。ポンと出せる金額ではありません。
牧野富太郎氏には、岩崎弥之助氏がそうしたいと思わせる、人間的な魅力があったのでしょうね。
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岩崎弥之助ってどんな人?
さて、牧野富太郎氏を助けた岩崎弥之助氏についても、もうちょっとご紹介したいと思います。
三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の実弟
岩崎弥之助の兄は、かの有名な三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎です。
牧野富太郎氏と同じ、土佐の出身で、弥太郎は富太郎より27歳上になります。
極貧の中で育つも、毎日猛勉強し、藩の仕事の商売で手腕を発揮。
1873年(明治6年)に三菱商会を設立し、大事業家となります。
そして、岩崎家の次男として生まれた弥之助は、弥太郎の16歳下。富太郎よりも11歳上になります。
三菱財閥の2代目当主
岩崎弥之助もすでに藩の役人になっていた弥太郎の期待に応えようと、必死に勉強を続け、
- 21歳でアメリカに留学し、17か月で英語を完全にマスター
- 帰国後は弥太郎のサポートをするために三菱商会に入社。副社長に就任。
- 妻は、後藤象二郎の長女・早苗
という…。
あらためて、すごい兄弟です。
岩崎弥之助は偉大な兄に負けない経営手腕を発揮し、弥太郎の死後、34歳で三菱財閥の2代目当主に就任しました。
こんな人物が大きな借金を肩代わりしてもよいと思わせた牧野富太郎氏もまた素晴らしいですよね。
岩崎弥之助氏は、富太郎氏に興味を持ち、投資するに値する人物だと判断したのでしょう。
さてらんまんでは、このエピソードがどのように展開されるのか楽しみです。
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